TOKYO FMで月曜から木曜の深夜1時に放送の“ラジオの中のBAR”「TOKYO SPEAKEASY」。今回のお客様は、LDH JAPAN代表取締役社長のEXILE HIROさんと常連客の東京藝術大学学長・日比野克彦さん。ここでは、HIROさんがEXILEを結成したきっかけについて語りました。
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(左から)日比野克彦さん、EXILE HIROさん
◆ダンサーをあえて「パフォーマー」と呼ぶこだわり
日比野:戦後~70年代ぐらいにあった“美術や音楽はこうあるべきだ”みたいなフォーマットみたいなものを、80年代に入ってから急に、ぶっ壊して“いろいろなものを混ぜていこう!”みたいなものがグッと加速していったような感じがありますよね。それこそダンスも、今は体育の授業にもなっていますけど、(昔の扱い方は)全然違うもんね。
HIRO:そうですね、当時のストリートダンスは、一般的な人たちにはあまり浸透せず“夜遊び”のようなイメージがあったんですけど、今は、ダンスにもいろいろな種類が出てきて、キッズダンサーもすごく増えましたし、(職業として)振付師、バックダンサー、演出するダンサーの方がいたりして、ダンスの裾野が広がっていったと思います。
いま世の中にこれだけ認知されて、小学校の運動会でダンスをしたり、中学校の必修科目になっていたりするのを見ていると、感慨深いといいますか。当時の自分たちがダンスにハマって突き詰めていた時代とは明らかに違うので、“すごい時代になったな”と改めて感じます。
日比野:でも、EXILEでのHIROさんの活動が、そういうものをどんどん改革していったような気がして、広まり方がすごかったじゃないですか。
HIRO:“自分たちが変えてやろう”と思ってやっていたわけではないんですけど、それこそ、今までバックで踊っている人が“ダンサー”という見られ方しかされていなかったのを(壊したくて)、僕らEXILEはあえて“パフォーマー”という呼び方に変えたんです。
パフォーマンス中にボーカルの前で踊ったり、ライブのときには、パフォーマーだけが演じるようなコーナーを作ったりして、“ダンサーとアーティストをミックスさせた世界”が新しく見えた時代でもあったので、そこからEXILEのスタイルが広がっていったような印象はあります。
日比野:昔は1人のスターアーティストがいて、その後ろでダンサーが踊る、みたいなフォーマットがずっと続いていましたもんね。
HIRO:そうですね。例えばバンドでは、そのメンバーがプレイヤーとして活躍しながら、プロデューサーとして自分たちのバンドをプロデュースすることも多いじゃないですか。
(EXILEを結成した)当時から、ダンサーがプロデューサーという形のアーティストはほとんどいなかったんですけど、自分はまさにそれをやりたかったので、自分はプレイヤーとしてダンスを踊りながらも、グループをプロデュースすることで、自分の夢を叶えていきたいと思っていました。
始めたときは「ボーカルが見えない」「ダンサーはいらない」みたいな、今までにない形態のグループだったので、結構ひどいことを言われたりもしましたが、ダンサーという概念を変えたくて、アーティストやプロジェクト全体を、ダンサー出身の僕がプロデュースしてもいいじゃないか、と。EXILEや、その前身となるグループJ Soul Brothersでは、そういう想いを世の中に認められたくて頑張っていました。さまざまな困難がありましたが、諦めずに続けてきたことで、今(ダンスグループが)当たり前に活躍できる世の中になったことは、すごくうれしいですよね。
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<番組概要>
番組名:TOKYO SPEAKEASY
放送日時:毎週月-木曜 25:00~26:00