お笑いコンビ・麒麟の川島明がパーソナリティをつとめるTOKYO FMのラジオ番組「川島明 そもそもの話」(毎週土曜17:00~17:55)。芸人、俳優、ミュージシャン、映画監督、スポーツ選手、料理人など毎週1組のゲストを迎え、誰でも知っているあの人の、意外と知らない“そもそもの話”を伺います。1月20日(土)に出演したのは、お笑いコンビ・次長課長の河本準一さんです。今回の放送では、大阪から東京に進出した当時のことなどについて語りました。
左から河本準一さん(次長課長)、川島明(麒麟)
愛知県生まれ岡山県育ちの河本準一さん。1994年、NSC(吉本総合芸能学院)大阪校の13期生として入学。1995年に同期の井上聡さんとお笑いコンビ「次長課長」のメンバーとしてデビューします。大阪の劇場で下積みを積み、2002年に東京進出。2003年以降、仕事が急増し人気芸人に。お笑いタレントとして活動するなか、「14才の母 愛するために 生まれてきた」「お墓に泊まろう!」などの映像作品に出演。近年はSDGs推進活動やボランティア活動といった社会的貢献や農業にも尽力しています。
河本準一さん
◆苦労の連続だった東京進出
川島:僕らがこの世界に入ったとき、次長課長さんは(大阪で)舞台に出れば歓声があがるスーパースターでした。テレビ番組もめっちゃ持たれているなか、突然東京に進出されました。東京では、何も畑を耕していなかったんですよね?
河本:もちろんレギュラー番組もないし、劇場の確約もない。会社の推しもなく「行くのは自由だけど、200~300組(の芸人)を抱えている部署に入ってください」と言われた。
川島:実質ゼロからのスタートですよね。僕は(次長課長さんが大阪で出演する)最後のライブに出させてもらって、お客さんも全員泣きながら「いってらっしゃい」と送り出して。だけど、それから河本さんと井上(聡)さんの行方がわからなくなり、うわさで「まったく仕事がないらしい」「河本さんがアルバイトをしているらしい」って聞くんですよ。
河本:そうやね。
川島:関西芸人は“あんな天才がなんで?”って思っていました。
河本:(東京では)舞台に出るのもオーディションからだし、生活するにはバイトするしかないから、新宿・歌舞伎町にある案内所みたいなところで働いていた。当時はすでに結婚もしていたから、働いている場所の横にある託児所に息子を預けて、終電になったら息子を背負って家に帰る。そういう生活が続くのよ。
川島:収入もほぼない状態でした?
河本:全然なかった。東京に人脈もないので、借金すらもできなかった。
川島:その生活がどれぐらい続くんですか?
河本:27歳で行って30歳までだから、4年間は何もなかった。
川島:でも、たまに仕事で大阪に来たときは、そういう姿をまったく見せないんですよね。
河本:後輩には見せたくなかったんやけど、1人だけ……サバンナの高橋(茂雄)さんにずっと世話になっていて。「お前(東京で)バイトやってんの?」みたいなことを言われて、「いきなりはなかなか難しいですわ」と、自分なりに踏ん張っていたつもりやったんやけど。
大阪に帰ったときに2人でご飯を食べたことがあって、歩きながら高橋さんが「しんどくなったら大阪に帰ってくるのも全然ええねんで。自分のなかで追い詰めなくてもええで」って言われて肩をポンと叩かれた瞬間に、俺の涙腺のダムが決壊してもうて。
川島:うわぁ、限界だったんですね。
河本:自分のなかで全てが限界だった。早くに家族をもったのは自分の責任やけど、自分のなかでは“東京でもできる”と思っちゃっていたのよ。大阪でスキルは十分に身に付けたと思っていたので。
川島:芸人からの人気も高かったですから。
河本:「もう限界なんです」と泣き崩れたのを高橋さんが見て、「東京って、恐ろしい厳しい場所なんやぁ」って(笑)。
川島:(笑)。それでも「大阪に帰ります」にはならなかったのですね。
河本:自分のなかで悔しくて悔しくて。それに、そんなことを先輩に言わせてしまったことに責任を感じてもうて、“意地でも成功して道を切り拓かんと”って思った。あと「東京って、やっぱりええ場所やんけ」って自分に思わせたい気持ちもでかかった。
次回2月10日(土)のゲストは、ロックバンド・SOPHIAの松岡充さんです。
<番組概要>
番組名:川島明 そもそもの話
放送エリア:TOKYO FMをはじめとするJFN全国37局ネット
放送日時:毎週土曜 17:00~17:55
パーソナリティ:川島明(麒麟)